2018年8月10日金曜日

銀行の経営環境を大きく変える可能性があるペイロールカード

アベノミクスの第三の矢(成長戦略)の一つとして、給与の電子マネー化が注目されつつあります。その一例として、国家戦略特区の制度設計等を具体的に検討する国家戦略特区ワーキンググループでは、今年の4月から何度か「ペイロールカード」について議論されています。

ペイロールカードとは、企業から給与を受け取るためのプリペイドカードのことです。労働者はペイロールカードで給与を受け取り、そのカードを使って買い物代金を支払う(決済する)ことができます。ペイロールカードは、クレジットカードのようなプラスチック製の板(カード)だけでなく、スマートフォン(スマホ)のアプリの形で提供することもできます。

ペイロールカードが議論されるようになったきっかけは、日本で働く外国人労働者の増加です。外国人労働者の多くは、日本で銀行口座を早期に開設することが難しく、給与を銀行口座経由で受け取ることができません。このため外国人労働者を雇用する企業は、外国人労働者の給与を現金で手渡しする必要があり、事務コストが増えます。

ペイロールカードは、外国人労働者だけでなく、日本人労働者にも便利なものです。たとえば日本人労働者で、銀行口座を開設しているものの、クレジットカードやデビットカードを持たない方は、買い物などのために銀行ATMなどから現金を得る必要があり面倒です。また多額の現金を保有することは、財布がかさばるほか、盗難による損害が大きくなるといったデメリットもあります。日本人労働者であっても、ペイロールカードを使うことができれば、銀行ATMなどで現金を引き出す必要が少なくなり、現金保有に伴うデメリットを回避しつつ、給与を買い物代金に充てることができるようになります。

しかし現在の法律(労働基準法)では、ペイロールカードによる給与(賃金)の支払いを認めていません。同法24条1項にて、賃金の支払いについて次のように定められているからです。

労働基準法(昭和22年法律第49号)
第24条(賃金の支払い)
賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。


この条文は長いので、要約してみましょう。この条文の最初の文では、賃金は、「通貨」で、「直接」労働者に、「その全額を」支払わなければならない、とあります。つまり労働者に給与を支払う企業は、給料を現金(通貨)で労働者に手渡す(直接渡す)必要がある、ことになります。

しかし、現代社会では、賃金を現金で手渡し支払う企業は非常に少なく、ほとんどの企業は銀行振込で賃金を労働者に支払います。つまり、この法令のみをみると、ほとんどの企業がやっている「銀行振込による賃金の支払い」は違法行為となります。

ところが、同法の第24条の「ただし」で始まる二番目の文には、次のようにあります。

ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い(中略)できる。

この文をさらに省略すると、次のようになります。

法令(中略)の定めがある場合(中略)賃金について「確実な支払いの方法」で(中略)、通貨以外のもので支払い(中略)できる。

この文章の冒頭の「法令」は、労働基準法施行規則が該当します。同規則の第7条の2には、次のように記載されています。

労働基準法施行規則(昭和22年厚生省令第23号)
第7条の2
使用者は、労働者の同意を得た場合には、賃金の支払について次の方法によることができる。
1当該労働者が指定する銀行その他の金融機関に対する当該労働者の預金又は貯金への振込み


つまり(長くなりましたが)、労働基準法第24条1の「ただし書き」、ならびに労働基準法施行規則第7条の2によって、銀行振込による賃金の支払いが認められているのです。ちなみに、この部分は非常に複雑なこともあり、法律を所管する厚生労働省は、以下サイトで解説をしています。

https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/qa/roudousya/chingin/q7.html

法律(労働基準法)が、企業に対し賃金を通貨(現金)で直接支払うことを義務付けているのは、立場が弱いとされる労働者を保護するためです。賃金を現金ではなく、他の物(たとえば企業が販売している製品)で支払うと、労働者は受け取った製品を換金する必要に迫られるほか、換金によって賃金が少なくなるリスクがあります。また賃金を直接支払わず、第三者(たとえば親方、仲介人、代理人)を通じて支払うことを認めると、賃金が第三者によって搾取され、労務を提供した労働者に賃金全額が渡らないリスクがあります。

しかし、現実には、法律の「ただし書き」があるとはいえ、銀行振込による賃金の支払いは、賃金の通貨払いという原則に完全に適合するわけではありません。銀行預金は、預金者が銀行に対して保有する債権(預金債権)でしかなく、通貨ではないからです。理論的には、銀行が破たんしてしまえば、(預金保険で預金の一部はカバーされるものの)賃金が「確実に」支払われるわけではありません。推測でしかありませんが、銀行(および他金融機関)は、預金を通貨(現金)で預金者(労働者)に確実に支払うだろうから問題ないだろう、との考えのもと、この法律(労働基準法)が制定されたと思われます。

法律で、銀行は問題ない、とみなされたのであれば、ペイロールカードも銀行と同じように問題ない、とみなせばよいように思えますが、各種報道などによると、労働基準法を所管する厚生労働省は、ペイロールカードを賃金の支払い手段として利用することに消極的のようです。ペイロールカードの現在の仕組みでは、ペイロールカードを運営する資金移動業者の破綻などにより賃金が全額保全されない可能性があるほか、ペイロールカードでは現金(通貨)に変えることができない恐れがあるからです。

そこで厚生労働省は、8月8日に開催された国家戦略特区ワーキンググループにおいて、ペイロールカードを賃金支払方法として認めるために必要と考えられる要件として、以下4点を挙げました。

1.資金保全
・労働者の生活の糧である賃金について、安全性を高める観点から、資金移動業者に対して、資金決済法で定める資金保全の義務以上の義務(たとえば、要履行保証額の最高額の○○%以上の供託など)を課すこと。

2.換金性
・賃金として振り込まれた金額全額を、労働者から申出があった日に、一円単位で換金できること。
・ATM等を利用して、日本全国どこでも、換金ができること。

3.手数料
・少なくとも毎月1回以上は、労働者が手数料を負担することなく、換金できること。

4.本人同意の前提となる使用者の義務
・労働者に対して、ペイロールカード以外の支払方法(現金払い、銀行口座など)を準備し、当該方法を選択できることを示すこと。
・ペイロールカードを選択した場合にかかる手数料、1回あたりの取引額の上限(現行は100万円)や、資金移動業者が破綻した場合に保証される資産の範囲について示すこと。

そして厚生労働省は、上記のような要件を満たした資金移動業者を、賃金支払業務を行うことができる事業者として、厚生労働大臣が指定することを一案として提示しています。

日本政府は2025年までにキャッシュレス決済の比率を4割まで引き上げることを目標としており、目標達成の一手段としてペイロールカードによる賃金支払いを認めるべきとの声もあります。厚生労働省が、ペイロールカードによる賃金支払を可能とするための要件を明確にしたことで、ペイロールカードの提供を目指す資金移動業者が、上記要件を満たし、ペイロールカードでの賃金支払い事業に進出する可能性も高まりつつあると言えそうです。

仮にペイロールカードによる賃金支払いが可能となると、銀行の経営環境も大きく変わる可能性があります。これまで銀行は、給与振込というルートを通じ、黙っていても企業や労働者といった顧客との接点を持つことができました。しかしペイロールカードが賃金支払いに使われるようになると、銀行口座を保有しない、もしくは銀行口座を以前ほど頻繁に利用しない労働者が増えることになり、銀行は顧客との接点機会を失うことになります。この場合、銀行は、給与振込とは違う別の機会を見つけ出し、顧客との接点を維持する必要性が増すことになります。

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